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2010-01-09

善と悪について(5)

昨日の内容について、縁起という観点から補足しておきたいと思います。

まず、昨日の内容は、例えば一般的には悪と考えられている「嘘をつく」という行為でも、あるいは通常は善だと考えられるであろう「がんばれ」という励ましでも、状況によってプラスの結果になったり、マイナスの結果になったりするということでした。

よって、嘘をつくとか、「がんばれ」と励ますとか、あるいは体罰にしたところで、それ自体が必ずしも善悪といえるわけではなく、結果によって善悪を判断するべきだと考えるわけです。

次に、縁起について再確認しておくと、

因(原因)+縁(条件)=果(結果)

つまり、いかなる結果も必ず因(原因)と縁(条件)という複数の要因から生じるというものでした。つまり、因(原因)は同一であっても、縁(条件)が変われば果(結果)が変わるということです。

「状況によって結果が変わる」というのは、「縁(条件)によって果(結果)が変わる」ということと同じです。ですから、縁起から考えれば、嘘であれ、「がんばれ」という励ましであれ、状況によって結果が変わるというのは当然のことです。

そして、状況というのは常に違いますから、同じことをやっていれば、いい結果になることもあれば悪い結果になることもある。つまり、縁(条件=状況)に応じて因(原因=何をするか)を変えなければならないということになります。

ということは、よい結果(望ましい結果)を生じるようにするためには、相手の性格や資質とか、環境その他の状況において適切な行動を選択しなければならないということです。

つまり、縁起から考えれば、善とは縁(条件)に応じた適切な行為(因=原因)をなすこと、ということができます。行為には、体による行為、口で言う言葉、心で意志する考え、すなわち身口意の三業すべてを含みます。

ここまで整理すれば、一般的に考えられている善と悪の基準と、楽(望ましい)と苦(望ましくない)の結果から善と悪を決める基準の違いがわかりやすくなります。

まず、望ましい結果を意図して(つまり、善意でもって)、状況に応じて適切な行為を行い、そのごとくの結果が生じた場合を善だというのは、両者ともに共通だと思います。

次に、望ましからざる結果(特に他人にとって)を意図して(悪意でもって)、悪い意味で的確な行為(望ましからざる結果を生じさせる行為)を行い、そのごとくの結果をもたらせた場合を悪とすることについても共通でしょう。

問題は、望ましい結果を意図しながら(善意でしたことながら)、状況に対して不適切な行為を行い、望ましからざる結果を生じた場合の判断です。

例えば、相手を力づけてあげようとして「がんばれ」と言ったら、実は「がんばれ」と言われるとプレッシャーを感じてがんばれなくなるタイプだったような場合。

これは、楽と苦の結果から善か悪かを判断するという観点においては、悪ということになります。相手を力づけるどころか、力を落とさせてしまっているのですから、善とは言えません。気の毒な気もしますが、はっきり言えば余計なお世話です。

ですから、相手を力づけるという目的に対しては、悪だったと言わざるをえません。

ただ、微妙なのは、楽と苦の結果から判断するという面、つまり「異熟因・異熟果」という面からは悪と言わざるをえないのですが、「同類因・等流果」という観点から見れば、善意でやったことによって、次の善意が生じてきますから、その面では善と言うことができるということです。

そのような側面を大切にしていけば、例えば、そのような失敗を通して「相手の性格を見て、やり方を変えなければならない」といったような学習がなされ、将来において、より大きな楽(望ましい)の果を生じることになるかもしれません。

そういう意味で、悪と断言してしまうのは酷な気もするのですが、しかし、適切な行為をしなければ、望ましい結果は得られないということを自覚するためにも、やはり、そのこと自体においては悪であるとするべきです。

ところが、一般的な善悪の基準では、この善意によるけれども状況に対して不適切な行為をしたために望ましくない結果が生じた場合を善とするか悪とするかの判断が混乱しており、それぞれ自分の都合に合わせた勝手な解釈をするわけです。

体罰を例に挙げましょう。

昨日も書いたように、現代では体罰は悪とされています。ところが、場合によっては体罰が良い結果をもたらすこともあり、体罰は必要だ、善だと考える人もいます。

体罰が悪だと考える人は、体罰によって(体罰を善とする人からすれば善意による行為であり、悪とする人から見れば悪意による行為です)望ましくない結果が生じた場合には、やはり体罰は悪だということになり、望ましい結果が生じた場合には「偶然だ」あるいは「結果が間違っている」と考えます。そして、体罰をしないことによって(体罰を悪とする人からすれば善意の行為で、体罰を善とする人からすれば悪意と言わないまでも善意を欠いた行為です)望ましい結果が生じた場合は、やはり体罰をしないことが善だと考え、望ましくない結果が生じた場合は「結果が間違っている」あるいは「そうなるべくしてそうなったのだからしかたがない」と考えます。

体罰が善だと考える人は、体罰によって(体罰を善とする人からすれば善意による行為であり、悪とする人から見れば悪意による行為です)望ましい結果が生じた場合には、やはり体罰は善だとし、望ましくない結果が生じた場合には「結果が間違っている」あるいは「そうなるべくしてそうなったのだからしかたがない」と考えます。逆に、体罰をしないことによって(体罰を悪とする人からすれば善意の行為で、体罰を善とする人からすれば悪意と言わないまでも善意を書いた行為です)望ましくない結果が生じた場合には、やはり体罰は必要だと考え、望ましい結果が生じた場合には(体罰が必要という人でも、何が何でも体罰で解決とは思っていないでしょうから)そういうものだと簡単に納得(というか、深く考えないように)するでしょう。

そんな調子で、楽・苦の結果から善か悪かを判断するのでないかぎり、いくらでも都合よく善悪を決めることは可能になります。そして、それは自分の都合で決めたものですから、因果応報と無縁になることも不思議ではないわけです。

そして、善が縁(条件=状況)に応じた適切な因(原因=行為)を行うことであるとすれば、自分の行為の選択肢が多い方がよいのは当然のことになります。

嘘をつくことも必要だとはいうものの、状況によっては本当のことを言ったほうがよいでしょうし(そういうことの方が多いでしょう)、曖昧に誤魔化すとか、知らないふりをするとか、気がつかないふりをするとか、自分の価値観にこだわりなく、いろいろな手段を用いることのできる人のほうが、より善を行いやすいということになります。であればこそ、「嘘も方便」なのです。

自分が勝手に設定した「善」を実行し、それによって望ましい結果が生じないからといって、因果応報に疑問を持つ人がいかに多いことでしょうか。

あるいは、今のところは報われてないけれども、将来において必ず報われるだろうと信じ、不適切な「善」を一生懸命継続している人もいます。報われていないということが報いなのに…

しかも、宗教団体の信者にそういう人が多いというのが(私などからすれば)悲しいところです。

なお、逆に悪意をもってやったことだけれども、ひょんなことから良い結果になったというケースもあります。

この場合をどう判断するかですが、いくら悪意であったとしても、楽(望ましい)結果になった以上、そのこと自体については「善」と判断するべきです。

これは、単に楽と苦の結果から善悪を判断するという定義を杓子定規に当てはめるというだけではありません。

逆のケースと同様に、悪意でした以上、「同類因・等流果」の関係から、さらに悪意が増強されるという側面もあるにはあります。しかし一方で、良い結果が生じたことによって周りから喜ばれ、それがきっかけで生き方が変わるということもあります。

であれば、それを善いこととして最大限にみんなで喜び、本人を褒め立て、本人も周囲も善くなるようにするのが、それこそ「善」というものではないでしょうか。

因果応報というのは、要は生き方の問題ですから、客観的に事実を解明するという以前に、自分と周囲がより幸せになるために活用すべきものです。因果応報を問題にしているのに、それを厳密に理解するために、わざわざ楽果を減らし、苦果を増やすようなことをする必要はありません。

そのあたりを間違えている人も結構いるように思うのです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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