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2010-01-11

善と悪について(6)

善と悪の問題について、いよいよ肝心なところにさしかかってきました。

前々回のエントリーにおいて、

例えば、佐藤さんのところに言って「鈴木さんがあなたの悪口を言っていた」という嘘を言い、鈴木さんのところに行って「佐藤さんがあなたの悪口を言っていた」という嘘を言ったとすれば、当然、これは悪だといえるでしょう。

なぜなら、たいていの場合、その嘘によって佐藤さんと鈴木さんが仲違いをすることになるからです。あるいは、佐藤さんと鈴木さんが直接に話の内容を確認して、それが嘘だとばれた場合、嘘をついた本人が信用をなくすことになりますが、いずれにしても、善い結果にはつながりません。

そのような結果によって、悪だという判断ができます。


としましたが、ここで疑問を持たれた方も少なくないのではないでしょうか。

普通、こういう形で嘘をつき、佐藤さんと鈴木さんを仲違いさせようとするのは、それによって何らかの利益があるからと考えられます。とすると、うまく佐藤さんと鈴木さんを仲違いさせることができれば、それは自分にとって「望ましい」結果だということになります。

となると、楽(望ましい)と苦(望ましくない)の果によって善か悪かを判断するというのであれば、自分にとって「望ましい」結果をもたらした「嘘(をつくという行為)」は善ということになるのではないか、という問題です。

こういうことは現実に結構あることで、およそたいていの犯罪など、犯人はその犯罪行為によって何らかのメリットがあるから実行するわけで、例えば強盗殺人事件で大金を奪って逃げおおせ、何食わぬ顔で生活していた場合、それも善なのか、ということになります。

あるいは、どこかの国の首相のように、数億円単位の生前贈与を受けながら、自分は知らなかったといって秘書の責任にし、私腹を肥やしたわけでないといって、事項に引っかかった分の相続税だけ払い、事項分はそのまま自分の懐に入れて、それ以上マスコミの追求がないからといって無事に首相の地位にとどまっていられるという場合、その恥知らずな行為が「首相の地位にとどまる」という本人にとって「望ましい」結果を生じているのですから善だということになります。逆に、過去の自分の発言に忠実であるとすれば辞任せざるをえない、つまり自分にとって「望ましくない」結果になるわけですから、悪だということになります。

つまり、「自己中心」な行為が成功すれば、それは自分にとって「善」だということになってしまうわけです。

これをどう判断するべきでしょうか。

私は、敢えて、それは善であるとしたほうがよいと思います。ただし、一定の範囲内においてです。縁起という観点から考えると、要因も複数ですが、結果も一つだけではないことを踏まえれば当然のことです。

例えば、嘘をついて佐藤さんと鈴木さんを仲違いさせたケースを考えてみましょう。

確かに、その時点において、自分にとっては「望ましい」結果になったことは事実です。しかし、佐藤さんと鈴木さんにとっては「望ましくない」結果であり、やはり、その部分においては間違いなく悪の行為ということになります。

そして、その嘘というのも、いつまで効力があるかわかりません。佐藤さんと鈴木さんがお互いの情報を確認して、こちらが嘘をついたということがばれれば、その時点で事態は正反対の方向に動いてしまいます。まず、自分自身が嘘によって得た利益を奪い返されるでしょうし、仕返しにそれ以上のことをされるかもしれません。そして、佐藤さんと鈴木さんのみならず、そのことを知った人全員からの信用をなくし、真っ当に相手をしてもらえないようになるでしょうから、将来における利益もうしなってしまうことになります。

さらに、ばれなかったとしても、ばれないかどうか常に心配しなければ成りませんし、ばれないようにするために嘘に嘘を重ねる必要も生じます。嘘が重なるほどにばれる可能性は高くなりますから、心が安まることもないでしょう。

つまり、その時、その場における自分にとっては「望ましい」結果であっても、自分以外にとっては「望ましくない」結果であり、また、未来においては自分自身を含めたすべての人にとって「望ましくない」結果になるわけです。

ですから、現在から未来への変化を時間軸とし、現時点における結果を受ける範囲を空間軸として考えると、時間軸で今だけ、空間軸で自分だけという極めて狭い範囲においてのみ善とされ、より大きな範囲において悪とされることになります。その比較において「より(圧倒的に)悪である」という整理のしかたができるわけです。

これは強盗殺人を犯した場合でも、どこかの国の脱税首相でも同じです。

件の首相など、とりあえずの辞職は免れたとしても、国会でこの問題を追及されたら火だるまになることは確実ですし、将来においては「首相在任中に巨額の脱税が発覚しながら、数の力を背景に辞職しなかった恥知らずな最低の首相」として歴史に名を残すことになるわけです。それを庇った国会議員やマスコミ関係者(ジャーナリストやコメンテーターという人たち)も同様で、だからこそ未来から自分を見る目を持ったほうがいいと思うわけですが…

閑話休題。敢えて、その時、その場で自分だけにとって「望ましい」結果をもたらす行為についても、その範囲では「善である」と認めるにより、かえって、それがもたらす「望ましくない」結果を直視せざるをえなくなるということになると私は考えます。

なぜなら、悪事を働く人というのは、たいていの場合、自分にとって都合の善い部分ばかり考え、それによるマイナス面というのは(たとえ、それが自分にとってマイナスに働くことであっても)考えていないものだからです。

また、その逆もあります。善行と思っていることでも、それによるマイナス面だってないわけではありません。「小さな親切、大きなお世話」というわけではありませんが、善意による行動で、たしかに良い結果をもたらしていることでも、知らないうちに誰かに犠牲を強いているかもしれません。「自分さえ犠牲になれば…」などといって、必要以上に自分を痛めつけている人も少なくありません。

私の師匠は「すべてのことには功罪がある」と言っていましたが、よくよく考えてみれば、純然たる善、すなわちあらゆる面で「望ましい」結果をもたらす行為とか、純然たる悪、すなわちあらゆる面で「望ましくない」結果をもたらす行為などは滅多にありません。

例えば、ほとんど決まりかけていた交渉を、些細なことでプライドを傷つけられたからといって、全部ぶちこわしにする人がいます。それは未来においてどころか現在においても、自分にとっても相手にとっても望ましくない結果しかもたらさないように見えます。しかし、その瞬間において、自分のプライドを守るという極小の「望ましい」結果をもたらしてはいるわけです。

つまり、悪人といわれる人も、何らかの「望ましい」結果が期待できるから、その行為を行うのですから、本人にとっては「善なる行為」と信じていても不思議はないということになります。

それを悪いことだからやめろと言っても難しいわけで、まず、極小の善であっても善は善と認めるところから、誰にとっても共通の善悪の基準ができるだろうということも、楽と苦の果によって善悪を決めるべきだという理由の一つです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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