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2010-01-14

因果応報を信じるとは

今日は、いったん因果応報の考察は一休みして、因果応報を信じることの意味について論じてみたいと思います。

これまで、因果応報の前提となる縁起・業(カルマ)・善悪といった問題について考え、また、因果関係を整理した「六因・五果」のうち、因果応報に深く関わる「異熟因・異熟果」「同類因・等流果」について説明してきました。

どの程度的確に説明できたかはともかくとして、これまで説明してきた内容からだけでも、本来の仏教の考え方に基づく因果応報というのは、一般的に考えられている神仏から与えられる賞罰のような感じの因果応報とはずいぶん違うものだし、合理的なものだということがおわかりいただけるのではないかと思います。

そして、これからいよいよ先祖の因縁だの前世の因縁だのというやっかいな問題に入っていくわけですが、まあ、率直に言いまして、そんなもの論証できるのかというと、無理なのですね。

先祖の因縁につきましては、「親の因果が子に報い」などというように、事実としてそういうことがある、という程度なら可能です。しかし、自分が作った業(=因縁)の報い以外の出来事は、すべて親先祖の業を引き継いだものであるなどという論証は非常に難しいでしょう。

まして、前世や来世に至っては、それがあるかどうかも証明できないわけですから、最終的には信じるか、信じないかという話にならざるをえません(仏教では、悟りを開けば神通力によって前世や来世がわかるようになるとはいいますが、もしわかったとしても、それが客観的事実であることを証明するのは非常に困難です)。

しかし、先祖や前世の因縁という観点を取り入れないかぎり、因果応報が成り立たないケースが出てくることは、「業(カルマ)について(2)」へのコメントでの荻原さんのご質問に答えたとおりです。

とはいえ、因果関係の明白な事柄については、因果応報を実感することが少なからずあるはずです。それを根拠として因果応報という法則が働いていると多くの人が思っているのでしょうし、また、そうでなければ因果応報などという発想自体、起こってくるはずがありません。

問題は、通俗的な因果応報、特に一因一果(一つの原因に対して一つの結果が生じる)という因果関係の見方では、因果応報に反するような問題も少なくないというところにあります。悪人が栄えて善人が苦しむというようなことは、昔から指摘されているところです。

そのために、一方では因果応報に対して懐疑的な見方が生まれ、また一方で先祖や前世に視野を広げることで説明しようとする考え方ができ、でも大半の人は漠然とそういうものだ(どういうものかはまちまちで…)ということで満足しているというところでしょう。

そこで、私としては納得してもらえる人にとっては、因果応報というものが現に働いているということの蓋然性が高くなるだろうと考えて、縁起やら業(カルマ)やら異熟果・等流果やら善悪の基準等々を説明してきたわけです。

しかし、ここから先は、いくら論証したところで、信じるか、信じないかということにならざるをえません。

私自身は因果応報を確信していますが、人に無理して同調してもらおうとは思いません。なぜならば、私にとって、突きつめるところ「因果応報を信じる」というのは「生き方の問題」だと思うからです。「人生、いかに生きるべきか」という視点を抜きにして因果応報を信じたところでさして意味がないと思っています。

因果応報が生き方の問題である、というのはどういうことかをわかりやすい言葉で言えば、2点に整理できると思います。

第一は、自分の現状を他人の責任にしない。

第二は、結果に責任を持つという覚悟を持って行為する。


これを、さらに一言にまとめれば「自分の人生の主人公はあくまで自分である」ということです。これを釈尊は「自灯明、法灯明(自らをよりどころとして他のものをよりどころとしてはならない。真理をよりどころとして他のものをよりどころとしてはならない)」という言葉で教えています。

ですから、私は前世を信じますが、だからといって、自分の前世がどうだったかということにはまったく関心がありません(そのためかどうか知りませんが、不思議なことに、誰にでもその人の前世を教えるという人に会っても、私の前世については話題にも上りません。なので、私は自分の前世についてはまったくわかりません)。

先祖の事績には関心がありますが、自分の現在抱えている問題について、それがどういう先祖の問題を因縁としているかということにもさして関心がありません。きちんと先祖を意識し、心に留めていれば、知る必要があるときには自ずからわかってくるものです。

そういう意味からすれば、前世や先祖の因縁を含めた因果応報を信じているからといって、必ずしもよい結果につながるとは限らないということは、常に強調しておく必要があると思います。

多くの場合、なぜ、前世を知りたいか、あるいは先祖の因縁を知りたいかというと、自分の現状について納得できる理由がほしいからです。

スーザン・A・クランシーの『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』(ハヤカワ文庫NF)によれば、エイリアンに誘拐されたと信じている人たちも、はっきりとエイリアンに誘拐されたという記憶のある人はごくわずかだそうで、大半は、自分が人生において感じる違和感を納得させる理由として、自分はエイリアンに誘拐され、何かをインプラントされた(埋め込まれた)と信じているだけだそうです。

無論、クランシーも『なぜ人は…』の中で指摘しているように、嘘か本当かは別にして、そういう納得できる理由が与えられることによって前向きの人生が送れるようになるということはよくあることなので、一概には否定できません。むしろ、効果があるかぎりにおいては積極的に肯定すべきだと思います。

しかし、だからといって、自分の人生の主人公の座を他人に明け渡すようなことをすべきではありません。一時的には前向きになれても、それによって前世やら先祖の因縁やらという自分では確認できないことを教えてくれる存在に依存してしまうと、その人の支配下に置かれることになります。

そのような観点からすれば、ご親切に他人の前世や先祖の因縁を教えてくれ、そこから生じた(あるいは、今後生じる)不幸を避けるために、自分(たち)の教えに従うようになどという宗教者や宗教団体など、まったくもって余計なお世話ということになります。

本人にはわからない前世や先祖の因縁(それが正しいかどうかは証明しようがありません)を持ち出すことによって優位に立ち、他人の人生を支配しようというわけですから、油断も隙もありません。

このような悪い人たちに支配される人というのは、心のどこかで、自分の現状を「前世の自分という他人」の責任にし、自分の行為の結果を「来世の自分という他人」に押しつけています。因果応報を「自分の生き方の問題」として考えていないために、自分の人生の主人公の座を他人に明け渡すようなことになるわけです。

このようなことを踏まえた上で、次回は、そもそも因果応報について考察することになった直接のきっかけである「悪人になろう」への荻野さんのご質問にお答えしたいと思います。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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