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2010-01-15

因果応報に関する質問へのお答え

大変遅くなりましたが、昨年11月27日のエントリー「悪人になろう」への荻野さんの質問に対して、お答えします。

質問の内容は次のようなものでした。

> さて、因果応報が出ていましたので、この際お聞きしたいと思います。因果応報は、実に好ましい法則だと思いますが、存在しているのかどうか疑問に感じています。

> 例えば若者や子供が殺人事件の被害者になることがありますが、そんなひどい報いが来るような人生を歩んでいたとは思えないからです。それとも事件は報いではないのでしょうか。また、大きな天災、人災で大勢の人が亡くなりますが、千差万別の人生を歩んでいた人達がどうして同じ報いを受けることになるのか、理解できないわけです。


また、この質問に加えて、

> ところで、某宗教では、私の疑問に対しては、前世の罪、先祖の罪があるからだ、という回答をすると思います。それも信じれば、納得できるので、悪いとは思いませんが・・・。

というコメントもいただきました。

まず、後半の質問に対する答えですが、これは縁起(因+縁=果)という観点からいえば、「大きな天災・人災」という重大な縁(条件)に遭遇したことよるということでご理解いただけると思います。むしろ、同じ大きな天災・人災であっても、亡くなる方と生き残る方がいるということのほうに意味があると思います。

前半の質問に対する答えは、普通に考えれば荻野さんがコメントされたように、前世もしくは先祖の因縁の果報だということになると思います。

しかし、私は因果応報を信じる立場において、そのような答えは不適切だと考えます。なぜなら、そのような答えをするのは因果応報を他人事と考えているからだと思うからです。

では、どう答えるべきかということですが、「それに答えることには意味がない」と答えるか、もしくは答えないというのが正しいだろうと考えます。

というのは、因果応報を自分の問題として信じる立場からすれば、こういう質問に対する答え自体、何が正しいかというより何が善か(望ましくない結果を避け、望ましい結果をもたらすか)ということが基準になるはずだからです。

状況を考えずに、ただ自分の信じるところを開陳するだけなら単なる自己満足であり、それによって望ましからざる結果をもたらすならば、それは悪因を作ったことになります。そして、この荻野さんの質問の内容に対しては、普通に答えると望ましからざる結果につながることが多い、すなわち悪因を作ることになる恐れが大きいと私は考えます。

よって、そこで迂闊に前世や先祖の因縁を云々するというのは、因果応報を信じるといいながら、自分の問題とは考えていないだろうと判断します。私の基準でいえば、そういう人は因果応報を信じているとはいえません。

もちろん、この質問がまったく別の状況で発されたものであれば、それなりに自分の考えを述べたかもしれません(条件が変われば結果も変わるので、善悪の判断も違ってくる)。また、異なる状況であれば述べたほうがよい場合も間違いなくあります。

では、なぜ、この質問に答えることが悪因を作ることになるのでしょうか。

まず、当たり前のことですが、他人の死に意義づけをするというのは極めて失礼なことになる可能性が高く、細心の注意を払う必要があります。故人と遺族の心情を尊重し、事実かそうでないか、正しいか間違っているかは二の次にするのが常識ある振る舞いというものでしょう。

例えば、荻野さんの質問にあるような状況で身内が亡くなったとき、自分自身が因果応報を信じていたとしても、それでも先祖なり前世なりの因縁によるものだからと言われたら、やっぱり気分がよいものではないでしょう。

まあ、ごくまれに、そう言われたことがきっかけとなって、ある種の安心をえた人というのも実際にいますので、一概に悪いとばかりは言えませんが(その人は、そういうことがなければ、自分を責めてばかりという生き方から脱出できなかったでしょう)、それでも、そこに至るまでの過程というのは非常にきわどいものでしたから、私は絶対にお勧めしません。

いずれにせよ、人の死を意義づけるようなことに関しては、くれぐれも慎重であるべきということです。

次に問題なのは、このブログが公開のものであるということです。まあ、実際には少数の方々しか見ていないとはいえ(ご覧の皆さま、ありがとうございます)、ブログはgoogleの検索でも比較的上位になる可能性が高いので、まったく新規の方がたまたまそこだけを見るという可能性も常にあります。

もし、身内が若くして事件に巻き込まれたというような方が、たまたまそういうのは先祖や前世の因縁だなどと書いているのを見たら、やはり不愉快な思いがするでしょう。

もちろん、約1ヶ月にわたっていろいろ書いてきて、さらに今後も書いていく予定の因果応報についての内容を読んでもらえば、たぶん、誤解を生じることはないと思いますが、しかし、わざわざそんなものは読まないという蓋然性が高いわけですから、因果応報を信じる以上、私としてはそんな危険を冒すことはできません(読んだ人を不愉快にさせるという点で)。

まして先祖や前世の因縁というのは客観的に有無を論証できないもので、最後は信じるか信じないかというものですから、論じても信じたくない人は信じないことは間違いありません。そういう意味では不毛な内容です。

※では、なぜ私がそういうことを論じるかというと、そのような考え方を押しつけたり受け入れてもらうためではなく、そういう視点もあることを知ってもらうためです。知っていれば、役に立つときがあるかもしれませんから。

ですから、誰でも見られるように公開しているブログで、人の死を意義づけるような内容を書くというのは悪因を作ることになる恐れがあると判断するのが、因果応報を自分のこととして信じている人間の取るべき態度だろうと思うわけです。

※当然、違う状況下では論じることもありうるということです。

そもそも、昨日書いたように、私は因果応報を「自分の生き方の問題」と考えていますので、生き方に関わらない問題について因果応報を考えてもしかたがない、むしろ避けるべきだと思っています。それは、そういう問題を考えると、間違いなく、自分の生き方という観点が抜けていき、悪因を作りやすくなるからです。

つまり、自分自身がそういう事態に巻き込まれたときにどう対処するか、あるいはそういう事態に巻き込まれた人からアドバイスを求められた場合においてのみ考えるべきことで、なおかつ、アドバイスをする場合には、客観的事実として正しいかということより、その人がより前向きに生きていけるようにするためには何が必要かという観点から考えるべきということになります。

※あとは、悪事を働きながらうまくやっている人に対して、無駄な恨みや怒りを持つことなく、淡々と自分のやるべきことがやれるようにするため、そういう人たちのありようを因果応報の観点から分析することはありますが。

いずれにせよ、自分の行動が因果応報を基準にして決まっていくようでなければ本当に因果応報を信じているとはいえないでしょう。

以上のような理由から、因果応報を信じている立場として、前半の質問は「それに答えることには意味がない」というのを答えにしたいと思います。

ただ、それだけだと不親切で、これまた悪因を作ることになりますから、直接答えない形とはいえ、縁起についてから始まって、これまで書いてきた内容、またこれから書く内容で答えているということもご理解いただけると思います。

また、その全体によって因果応報を信じるとはどういうことかが示せるのではないかという意図も(成功しているか否かはともかく)汲み取っていただければ幸いです。

ありがとうございます。

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theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

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ご回答、ありがとうございました。

 やっとここまでたどりつきました。ご回答まで大量の記事を書いてくださり、大いに恐縮しております。また、先日は二つの質問に対するご回答、ありがとうございました。
 なお、善悪につきましては、何かお聞きしたいという気持ちがあるのですが、どうもうまく表現できませんので、また後日まとまりましたら・・・。

>「大きな天災・人災」という重大な縁(条件)に遭遇したことよるということで
>ご理解いただけると思います。
 
 いやあ、正直言って、どうも分かったという自信がもてないので、基本から確認させていただきます。例えば、遣唐使船が沈没して乗っていた人がみな亡くなってしまう場合、因は船に乗ったことで、縁が嵐と遭遇したこと(船が傷んでいたとか他にもあるでしょうが)になるわけですか? で、縁が非常に強力なので、乗客全員、善人も悪人も巻き込んでしまうということですか? 別の例えを持ち出すなら、それまで様々な生き方をしていた生き物が、冬になれば、みな滅んでいくようなものでしょうか?

>普通に考えれば荻野さんがコメントされたように、前世もしくは先祖の
>因縁の果報だということになると思います。

 了解しました。先祖と前世についてはまだ記事が続いているようですので、ご迷惑でなければ、またそちらの方にも書き込ませていただきたいと思います。

>因果応報を信じる立場において、そのような答えは不適切だと考えます。

 これは意表をつくお答えですが、確かに宗教人たる者、こういう視点はあるべきなんでしょう。しかしながら、そういう応対をする宗教人は余りいないような気がします。そう言えば、阪神大震災の直後、正しい人は助かったなんて某機関紙(私のいた宗教のではありません)で発言した人がいて、かみついたことがありましたっけ・・・。

 因果応報につきましては、天罰ではないということはよく分かりました。この世の解釈に関しては合理的ですので、私のような無宗教者でも納得がいく部分が多いと思います。
 ただ、業力の性質はとらえにくいですね。実体のない時空を超えた存在という印象ですが、例えば、業力自体は、縁によってどうにでも変わる純粋なエネルギーなのか、元の行為の善悪によって性質が違うのか。また、犬を殴った場合と政府要人を殴った場合と、同じ「殴る」でも波紋の大きさは明らかに違いますが、それは業力の大小から来るのか、業力自体は同じ力で、単なる社会的地位の違いから来るのか。そういったことがちょっと自分ではあやふやですね。まあ、この辺は特に深く理解しなくてもいい部分かもしれませんが。

 それではまた。ありがとうございました。

Re: ご回答、ありがとうございました。

>荻野様

いつもご質問、ありがとうございます。おかげで、私自身も勉強になります。

> >「大きな天災・人災」という重大な縁(条件)に遭遇したことよるということで
> >ご理解いただけると思います。

>  いやあ、正直言って、どうも分かったという自信がもてないので、基本から確認させていただきます。例えば、遣唐使船が沈没して乗っていた人がみな亡くなってしまう場合、因は船に乗ったことで、縁が嵐と遭遇したこと(船が傷んでいたとか他にもあるでしょうが)になるわけですか? で、縁が非常に強力なので、乗客全員、善人も悪人も巻き込んでしまうということですか? 別の例えを持ち出すなら、それまで様々な生き方をしていた生き物が、冬になれば、みな滅んでいくようなものでしょうか?

説明が不十分でした。

前世、あるいは先祖の因縁を認めた場合、前世は一度かぎりではなく、先祖も一人ではありません。また、それがいつ苦楽の果を生じるかわからないということは、自分の中には善悪さまざまな(苦楽の果を生じる)因があるということになります。その中の一つの因が、たまたま地震なり船の遭難なりという縁に触れて、圧死なり溺死なりという果を生じたということになります。

ですから、因があっても縁に触れなければ果を生じることはなく、いかなる縁に触れるかによって果報が変わるというのがポイントです。また、自分の中には善悪数多くの業(カルマ=因縁)があって、たまたまその中で縁に触れた因が今の苦楽の果を生じているに過ぎないということも忘れてはならないところです。

> >因果応報を信じる立場において、そのような答えは不適切だと考えます。

> これは意表をつくお答えですが、確かに宗教人たる者、こういう視点はあるべきなんでしょう。しかしながら、そういう応対をする宗教人は余りいないような気がします。

そうでもありません。ただ、本当にそういう対応をしている宗教者は、わざわざ説明せずにその通りの実践をしていますから、一見すると人間として普通の(当たり前の)ことをしているだけのように見える(宗教者として特別なことをしているようには見えない)わけです。

> 例えば、業力自体は、縁によってどうにでも変わる純粋なエネルギーなのか、元の行為の善悪によって性質が違うのか。

業力を実体的なエネルギーと考えるのは誤りです。原因が結果を引き起こすに至る諸々の作用について、そこに力が働いていると見なす程度の認識でちょうどいいと思います。

Re:Re: ご回答、ありがとうございました。

 ご回答、ありがとうございます。やっぱり分かってませんでした。
 では、船に乗ったことは何になるのでしょうか。これは縁ですか。私は前世・先祖・自分自身の因が働いたから、船に乗るという果になり、乗ったことが同時に死の因にもなったと思ったのですが。

>おかげで、私自身も勉強になります。
 それはそれは。しかし、負担になってきたら、おっしゃってください。

Re: Re:Re: ご回答、ありがとうございました。

>荻野様

> では、船に乗ったことは何になるのでしょうか。これは縁ですか。私は前世・先祖・自分自身の因が働いたから、船に乗るという果になり、乗ったことが同時に死の因にもなったと思ったのですが。

いえ、荻野さんのご理解でも正解です。縁起について書いた中にあると思うのですが、因や縁といっても相対的なもので、どこを因に設定するかにより、何を縁と見なすかが変わります。

私が船の遭難を縁といったのは、先祖なり前世なりの因縁(業)を因と考える設定だったからです。船の遭難を縁としましたが、船に乗ったことにより遭難したのですから、乗ったこと自体を縁としてもいいわけです。

すべての因なり縁なりは、すべて他の因や縁の果ですから、どこに因を設定し、どこまで細かく分析するかで説明のしかたが変わります。むしろ、関わる要因が多いので、例えば先祖が人殺しをしたから自分も殺されるなどとは限らないというところが大切なところだと思います。

その方向で縁起を追求すると、当然ながらカオス理論になっていきます。ただ、そこに善悪の業力によって果報が影響されることを認めるか否かという違いだと思います。
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