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2010-01-18

先祖の因縁(1)

先祖の因縁。よく聞く言葉です。

親を含む先祖の作った業(カルマ・行為)が因(原因・直接的原因)や縁(条件・間接的原因)となって、子孫の人生に影響を及ぼすということと整理できるでしょう。

この「先祖の因縁」、すんなりと納得する人が多い一方で、抵抗を感じる人も少なくないように思います。中には、よく考えもせずに否定する人もいます。また、認めるにせよ認めないにせよ、一般的にはあまり善いイメージがないような印象を受けます。

我々が否応なく先祖の影響を受けているということは、少し考えればわかるごく当たり前のことです。ですから、先祖の因縁などないなどということはありえません。

『易経』(儒教の聖典である五経の第一であり、東洋の占術においてもっとも重要な書物)に「積善の家には余慶(よけい)あり、積不善の家には必ず余殃(よおう)あり(善行を積み重ねた家系では、必ずその恩恵の余沢が子孫に及ぶし、悪行を積み重ねた家系では、必ず災いが子孫に及ぶ)とあり、またことわざにも「親の因果が子に報い」といいます。

先祖の因縁が子孫に及ぶという実感・実体験の世界から出てきた言葉だろうと思います。

しかし、先祖の因縁という言葉には抵抗も多いですし、あからさまに否定的なことを言う人もいます。結構高名な仏教者の中にもいたりします。

なぜ認めたがらなかったり、否定したりするのかということについては、いくつかの原因があるように思います。

まず、一番大きな原因は、先祖の因縁を信じている人たちにあります。一般に信じられている先祖の因縁とその作用があまりにも単純化され、不適切なものになっている上、悪質な宗教者もどきが人を脅し、信者を獲得したり、お布施を強要する手段になっているためです。

第二には、自分の人生が先祖のしたことによって決められてたまるか、という考え方があるように思います。

第三には、人間は本来平等なものであるにもかかわらず、先祖の因縁などを認めると、その平等が損なわれ、不公平だという考え方があると思われます。

第一の問題については、いろいろ検討する必要がありますので後回しにして、第二の問題から考えてみたいと思います。

自分の人生が先祖のしたことによって決められてたまるかというような考え方をする人というのは、人生は自分の力で切り開いていくものだというタイプの人が多いようです。

まあ、確かに人生は自分で切り開いていかなければならないのですが、しかし、自分の力だけで切り開いていけるものでしょうか。そもそも、自分の力というのは自分の努力だけで得たものでしょうか。

世の中には、がんばりたくてもがんばれない人がいます。がんばることができるということ自体、実は自分だけの力ではないという要素もあるわけです。

生まれた家庭環境が、例えば金持ちか、金持ちじゃないというだけでも、人生に大きな影響があります。もちろん、それが本人にとってプラスに作用するか、マイナスに作用するかは別問題です。

金持ちに生まれたから、自分の能力を発揮するチャンスに恵まれたというケースもあるでしょうし、かえって自分の能力を磨くことを怠ってダメ人間になるというケースもあるでしょう。貧乏に生まれたことをバネにして能力を伸ばす人もいれば、埋もれてしまう人もいるでしょう。

しかし、それにしても、家庭の経済事情という、それこそ本人ではどうにもならない、先祖(親を含む)のしてきたことの結果によって影響を受けることは間違いありません。

さらに、経済状態や社会的地位といった形として見える問題以上に深刻な問題があります。

「三つ子の魂百まで」といいますが、幼少期の育ち方、特に親との関係がその人の性質を左右し、それが人生に大きな影響を及ぼすことは、もはや常識と言っていいでしょう。さらに、それ以上に胎教が大切であることもよく知られてきています。

ところが、その人生にもっとも大きな影響を及ぼす期間、普通の人は皆、受け身で育っています。自分の主体的な選択などはあり得ないわけです。つまり、自分の力の及ばないところで、自分の人生のもっとも基本的な傾向性が決定しているということです。

そして、それにもっとも影響を及ぼす自分の親も、そのもっとも基本的な部分は自分の力の及ばないところで決まっています。その関係が先祖へ、先祖へとさかのぼっていくわけです。

そう考えると、結局、自分の性質のもっとも基本的な部分は先祖の影響によって形成されているということができます。

人生を自分の力で切り開いていくといっても、そう思える気質も、それだけの能力を獲得しようと努力できることも、実は親、先祖のおかげで持つことができたという側面があるのです。

とはいえ、縁起という観点から考えれば、そういう因(原因)を持って生まれ育ったとしても、どのような縁(条件)を持つかによって人生が変わるということですから、そういう意味では、人生は自分で切り開くべきものだということには変わりありません。

ただ、出発の時点で大きな違いがあるということです。

次に、人間は本来平等なものであるにもかかわらず、先祖の因縁などを認めると、その平等が損なわれ、不公平だということについて。

確かに、人間は本来平等ですが、あくまで「本来」であって、現実には不平等ですし、不公平です。間違っているといっても、現実です。

しかし、それは悪いことでしょうか?

先にも書いたとおり、金持ちに生まれたからといって、それを活かせるかどうかは本人次第です。貧乏に生まれても、そこから一代で功成り名を遂げた松下幸之助のような人もいます。

あるいは、貧乏に生まれて、貧乏な生活をしていながら、本当にすごい人だなあと思わせる人物もいます。なまじ順調に生きてきた人には及びもつかないような頭のキレと肚の据わり方をしていたりします。

置かれた環境の中でどう生きるかによって価値が決まる。それこそが、人間は「本来」平等だということではないでしょうか。

まあ、そのためには輪廻という概念を導入したほうが、不公平感がなくなると思うのですが、それはいずれ論ずることにして。

杓子定規に平等だの公平だのという理屈を当てはめて、現実を間違っているなどと考えるほうが間違っていると思います。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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