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2010-01-19

先祖の因縁(2)

昨日に続き、先祖の因縁について考えてみます。今日は、先祖の因縁について否定的な人が少なくないことのもっとも大きな原因は、先祖の因縁を信じる側にあるということについて考えてみたいと思います。

なぜ信じる側に問題があるかというと、昨日も書いたように、一般に信じられている先祖の因縁というものが、余りにも単純化され、不適切なものになっている上に、悪質な宗教者もどきが人を脅し、信者を獲得したり、お布施を強要する手段になっているためです。

言い換えれば、先祖の因縁を信じているとはいっても、その理解が間違っており、しかもそれが悪事の原因になっているということです。間違った理解をしている以上、そこで想定されている先祖の因縁は道理に合わないものですから、それに対して否定的な見方がなされてもしかたがないでしょう。

ただ、通俗的な先祖の因縁の理解が間違っているからといって、ただちに先祖の因縁を否定するというのも変な話です。むしろ、冷静に観察すれば、先祖の問題が子孫に影響を及ぼす事例などいくらでも見られるわけですから、先祖の因縁とはいかなるものかというところから考察すべきだと思いますが、なかなかそうはいかないようです。

このことについて、非常に象徴的な一文がありますので引用したいと思います。

「因果」とは、言うまでもなく原因-結果関係、因果律のことである。これが仏教の教説として言われると、たとえば「因果応報」ということになり、これがきわめて通俗的に解釈されると「親の因果が子に報い」というような迷信になる。また、わが身やこの世に起こるさまざまな自称の原因に人間の行い(「業(ごう)」)を考え、結果としての事象を「報い」と想定するなら、これを安直に解釈して「前世の業の報い」とか「自業自得」などと言いつのり、他人を脅迫する不逞の輩も現れるわけである。
『「正法眼蔵」を読む』南直哉著 276P)

この文章の主旨にはほぼ賛同なのですが、それでも“「親の因果が子に報い」というような迷信”というような安直な言い方をされると、ちょっと待ってくださいと言いたくなります。「極めて通俗的に解釈されると」とありますから、因果応報そのものを否定しているわけではないでしょうが、「親の因果が子に報い」を一概に迷信と断言していいのでしょうか?

南師が想定しているのは、この言葉がよく使われていた昔の見世物小屋(私も小学生になる前に見た記憶があります)の口上でしょう。

確かに、障害を持って生まれた人について、親・先祖の悪業の報いであるとし、差別を正当化するようなことは厳に戒められなければなりません。また、先祖の因縁はそれほど単純なものでもありません。しかし一方で、そういう通俗的解釈に問題があるからといっても、では先祖の因縁は子孫に影響しないのか、親の因果が子に報いることはないのか、というと別問題でしょう。

先祖のしたこと、あるいは親のしたことが子孫に影響することは確かにあります。通俗的解釈が間違っているからといって「親の因果が子に報い」ということを「迷信」と決めつけるより、正しい解釈を提示して過ちを犯さないようにすることのほうが効果的だと考えるわけです。

なぜなら、一概に迷信だと決めつけると、先祖の因縁を脅迫の道具に使う「不逞の輩」が、実際に親の因果が子に報いる例を出して迷信ではないと論を組み立て、通俗的解釈に結びつけて人を脅迫していくことに対して説得力を持たないからです。いわゆる反社会的カルトといわれる教団が、教義の部分で批判されながらもさしてダメージを受けないのはそのためです。否定すれば否定するほど逆効果になるわけです。

※さらにいえば、上記の文に続く内容を見れば、私は南師の因果についての理解にも問題があると考えています。頭のいい人は物事を難しく考えすぎて、的を外してしまうという典型的な例だと思うのですが、それについては改めて論じてみたいと思います。

とはいえ、やはり第一義的には、先祖の因縁を信じている人の理解が誤っており、それによって人を惑わしているところに問題があるわけです。

では、何が問題かというと、まず第一に挙げられるのは、因果応報はあくまで自分がいかに生きるべきかという観点から考えられるべきものであるという観点が欠落しているということです。そのため、自分の不幸は先祖の因縁によるものだと信じ、一生懸命供養とかをしている人によくあることですが、問題解決のための自分自身の努力というものがまったく欠落していることが少なくありません。

例えば夫婦が不仲という場合、確かに先祖の因縁によるといって間違いではないと思いますから、一生懸命に供養するのもいいのですが、その前にきちんとコミュニケーションを取るようにしたらいいのにと思うことが少なくありません。そういう努力から逃げる口実として先祖の因縁やら供養やらを使っているので、いくら供養しても解決しないわけです。

子供の問題でもそうで、熱心に供養するのはいいのですが、子供に対する態度を改めず、感情的に叱りつけているのを見て、やれやれと思うこともあります。

先祖の因縁というのを正しく理解すれば、供養さえしていればいいというのではなく、先祖の因縁という問題を通して、自分がどういう生き方をしないといけないかということを考えるきっかけにするべきなのです。

夫婦のコミュニケーション不足でも、子供を感情的に叱りつけるというのでも、そういう自分になる背景には育った環境、特に親からの育てられ方や家庭の雰囲気、あるいは受け継いだ気質などがありますから、確かに先祖の影響があることは間違いありません。

しかし、結果として今あるのは自分の問題であり、それは自分が解決するべきものです。つまり、自分の生き方を変えることによってしか、先祖の因縁を解決していくことはできないわけです。

そういう観点が抜けているのが最大の問題だと思うのです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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