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2010-01-21

先祖の因縁(3)

一昨日の昼過ぎ、このブログのことは知らない知人から(仕事で最低限必要なメールしかしない人なので、教えていないブログを見ているはずがない)電話があり、ちょうど一昨日のエントリーで書いた内容と関連する内容について質問を受けました。

まあ、偶然というべきか共時性というのか。

その知人は、先祖供養を中心とする教団で支部の幹部をしている人なのですが、いろいろやってきて、問題解決のために先祖供養をしましょうと信者に勧めると、その問題が先祖の問題ということになり、先祖が救われれば何かよくなるだろうという感じで、自分自身の努力がなくなってしまう。教えとしては先祖の問題は自分の問題で、自分の努力が不可欠というのだけど、先祖を供養しようとする時点で、自分と先祖の問題が別物になってしまうように思うという内容でした。

その教団では、霊界の先祖の状態が現実の自分の問題となって起きてくるので、霊界の先祖の問題が解決すれば自分の問題も解決すると教えます。また自分の中に先祖がいるのであり、先祖の問題というのは自分の問題でもあるので、先祖の供養と同時に自分自身を改める努力もしなければならないとも教えます。

しかし、どうしても先祖の問題として供養を始める時点で、先祖と自分が分離し、知的には自分の問題と思っていても、先祖の問題という感覚が変わらないために、結局、供養はしても自分を改める努力がされず、問題が解決しないとのこと。また、やはり供養を勧めるときには、供養によって改善するという期待を持たせるようにしますから(でなければ、供養しようとは思わないでしょうし)、信者はたとえ本人の努力がなくても、何かよくなるはずだという期待を持っているわけです。

そうなると、良い結果が出たときはいいのですが、そうでない場合、信者のほうでは供養をしたのによくならないと考え、教団のほうでは本人の努力がないのだからよくならないのはしかたがないという。そして、支部でお世話をしている知人のような立場の人が、上からは「きちんと指導をしていない」ということで責められつつ、「供養すればよくなると言っていたじゃないか」という信者さんをなだめないといけないということになるそうです。

細々した部分はいろいろあるのですが、書けば差し障りがありますので省略しますが、まあ、そういう状況をどう受けとめればいいのでしょうかというようなことでした。どうも、先祖を供養をすれば…という時点で自分と先祖が別になるような気がするのだがと。

それに対しては、先祖の問題を教えと実践の中心に置くかぎり、その問題は解決しないというのが私の見解で、供養を主、本人の努力を従とする現在のあり方から、本人の努力を主、供養を従とするあり方に改めなければダメだろうと伝えました。

つまり、いくら先祖の問題=自分の問題といっても、霊界の先祖が救われれば自分の問題も解決するというスタンスだと(供養が主)、やはり先祖の問題という感覚になるのはしかたがありません。過去の私自身の体験から考えても、「先祖が…」と考えた時点で自分の問題という意識が薄れるのは理屈では割り切れない現実です。

これに対して、自分が直面する問題を乗り越えれば、同じような問題を乗り越えられずに霊界へ行って苦しんでいる先祖が救われるというスタンスにすれば(実は同じことの裏表ではあるのですが)、自分の問題という感覚になります。自分が努力をする、しかし、それで乗り越えられない部分を越えられるようにするために供養をしましょうとすれば問題は解決するわけです。

とはいえ、供養を補助にすると、勧める際の説得力が弱くなる上、先祖の問題が根本であり、供養をしなければ解決できないというところに教団のアイデンティティを置く以上、ハードルは高いのではないかということで、当分は苦労しないといけないのではと言うと、苦笑していました。

その電話によって、因果応報というのは自分がいかに生きるべきかという観点から考えるべきものなのに、先祖の因縁を信じている人は、往々にしてそれが抜けているために、自分自身の努力が欠落していることが多い、という一昨日書いた内容を改めて確認した次第です。

ただ、そうは言っても、私は先祖の問題という視点は非常に有効だと考えています。

例えば、最近流行のホ・オポノポノなどでも、すべての問題は100%自分が原因だと受けとめなさいと教えます。それはまったくその通りなのですが、普通の人にはそれが非常に難しい。

そもそも人間というのは無意識レベルにおいて我が身がかわいいものですから、普通は問題の原因を自分以外に置き、自分に置くという感覚がありません。また、自分に置こうとしても、それに耐えられないということが少なくありません。第三者の目で自分を見るなどと言いますが、それが極めて困難です。

あるいは、自分の問題と受けとめている人には、必要以上に自分を責めている人が少なくありません(必要以上に、というか、そもそも自分を責める必要はないのですが)。その結果、自分を改める前に疲れてしまっていたり、改めようとしても結果が出なければ、やっぱり自分はダメなんだと、さらに自分を落ち込ませたりしている人がたくさんいます。

そういうとき、「先祖の因縁」「先祖の問題」というクッションを置くということが非常に有効になります。自分を客観的に見ることはできなくても、先祖ならより客観的に見ることが可能になるわけです。ですから、この時点では根本解決とまではいかなくても、いろいろといい結果が出るのです。

しかし、あくまでそれは最初の段階であって、どこかで自分そのものを客観的に見ることができるように転換しなければなりません。最初は有効であった先祖というクッションが、ある段階からはかえって障害となるためです。ですから、自分が変われば先祖が変わる、自分が救われれば先祖が救われるというようにする必要があります。

そういう観点から教えと実践を組み立てれば、結構効果を上げるのではないかと思うのですが、そういう発想の教団というのは私の知るかぎりでは存在しないように思います。先祖供養を中心とする教団にはぜひお勧めしたいのですが…

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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