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2010-01-22

先祖の慰霊と因果応報

昨日のエントリーを読み返してみて、もしかすると私が先祖供養を単なる方便としてのみ見ているのではないかという誤解を与えそうな気がしました。そこで、そのあたりについて補足しておきます。

まず、私の書いてきた内容を見れば、私が先祖の因縁に肯定的であることは、敢えて言うまでもないことだと思います。ただ、過剰に先祖の因縁を言い過ぎると、バランスを欠いたものになるし、かえって弊害が大きい。まして、宗教団体が信者を脅す道具になりかねないということに注意すべきだといういうことです。

それで、先祖供養の問題なのですが、因果応報という観点に限定すれば、やはり私は、先祖というクッションを置くことによって自分を見つめ直すためのきっかけにするべきだと考えます。なぜならば、因果応報によって先祖の問題が自分に影響しているのだとすれば、供養や儀式によって問題が解消することなどありえないからです。

むしろ、その結果は私たちの日常生活の中に現れているのですから、日々の生活における楽しいこと、つらいこと、苦しいこと、喜ばしいこと、悲しいこと等々を受けとめ、その中で正しい選択、正しい行動をしながら、先祖を含む過去の因縁を解消し、自分を改めていくことこそが、因果応報という観点から考えた先祖の救いということになるはずです。

ただ、最初は問題の原因を自分のこととして見つめるのが難しいので、先祖供養という形を通しながら、そういう方向に意識を転換していくというのは、非常に有効であることは間違いありません。

では、先祖供養の意義とは何か。それは感謝報恩と慰霊ということになるだろうと思います。

報恩感謝という点は、敢えて説明するまでもないでしょう。先祖は根、親は幹、子孫は枝葉にたとえられます。先祖のおかげで今の自分があるわけで、根を大切にしなければ枝葉が繁らないように、先祖を大切にせずして子孫が栄えるはずがありません。また、今の自分が生きているのも、先祖が命を継承してきてくれたおかげで、その人生における苦労を考えれば、感謝報恩の心で供養するのは人として当たり前のことでしょう。

問題は慰霊で、この問題が因果応報とごっちゃになるために、先祖供養に対するとらえ方がややこしくなっていることが多いように思います。

ただし、ここから先は人は死んだら無になって何も残らないと考えている人には無関係の話かもしれませんので、先にお断りしておきます。

※といっても、死んだら終わりで何も残らないという人には慰霊も供養も意味のないことのはずです。それでも慰霊というと、どうも単なる自己満足とは考えず、何か意味があるかのような態度なのが不思議ですが、それもともかく。

慰霊について考えると、まず死んだ人も生きている人と同じような感情を持っていると考えるところから始める必要があります。言ってみれば、生きている人間との違いは肉体がなくなっただけということです。つまり、生きている人がどう考え、どう行動するかというのと同じ基準で考える必要があります。

そして、生きている人間で考えればわかりますが、怒りとか悲しみという強いマイナスの感情に支配されていると、例えば少々親切にしてもらったり、気を使ってもらっても、受け付けることが難しいものです。また、やらなければならないことがあっても、なかなか取り組めなかったりします。普通の人は、往々にして理性よりもマイナス感情の影響が強いからです。まして肉体がなく、死んだときに抱えていた感情に支配されている先祖はなおさらです。

そのため、先祖の中に強い怒りや恨み、悲しみを抱えて亡くなった人がいれば、それがさまざまな影響を及ぼします(特に感情的な面で)。あるいは、先祖の因縁によって起きた問題をマイナス方向に増幅させることもあります。それは、過去の先祖の因縁によるものというわけではなく、今現在の先祖が抱えている感情に由来するものです。

これを、先祖の感情に由来するものと判断するのは、供養を通して、先祖の思いを理解し、慰めることによって、問題が解消したり軽減したりということが実際にあるからです。

もちろん、先祖を慰霊しているつもりで、実は自分の深層心理のマイナス要因を掃除しているのかもしれませんし、先祖の慰霊と深層心理の掃除が別物ではない(先祖と自分がつながっているので)かもしれませんが、ともかく、因果応報とは無関係にそういう先祖の思い・感情を解いていく、つまり慰霊するということが有効だと考えられるわけです。

ですから、現実の自分に対する先祖の影響ということを考えると、先祖の業(カルマ)=因縁による因果応報の問題と、先祖の(特にマイナスの)思いが与える影響という二つの側面を考える必要があります。

そして、前者は自分自身が努力して正しい行為を行い、自分を改めることによって解決するのに対し、後者は先祖の思いを理解し、慰め、喜んでもらえるようにすることが重要になります。それが慰霊を目的とした先祖供養になるわけです。

そのあたりをきちんと整理すれば、供養と自分自身の努力の両方がなければならないというのは当然のことになると思います。ですから、供養は単なる方便ではないわけです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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theme : 宗教
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質問いたします。

 いつもお世話さまです。さて、先祖が自分に影響を与える、ということについては、仏教の教えを知らなくても、理屈だけで十分納得できます。家風のようなものを考えれば私にとっては分かりやすいです。

 先祖の因縁があるとすると、私のやった行為の業力は、私の来世と私の子孫とに分かれて影響していくわけですか。それから、業力は肉体的子孫のみに影響するのでしょうか。養子や、学者・芸術家・武術家など、血のつながりはなくても何かを綿々と伝えていく集団の弟子たちにも先人の因縁は働かないんでしょうか。子孫が絶えてしまった場合の業力は永久にそのままでしょうか。

 昔納得がいかなかったのは、自分に影響を与えているのは、時代・国・地域・学校・友人などなど多くあって、何百年も前の先祖よりずっと影響の強い場合もあると思うのに、なぜ先祖だけ突出して扱われるのか、という点です。先祖以外は宗教の専門外だからしかたないとも言えるでしょうが。問題解決の優秀な指導者は視野が広かったような記憶があります。

 これは先祖供養の批判ではなく、確認です。確か、お釈迦様の時代の仏教は先祖供養をしなかったということですが。これは中国が起源とか。

>死んだ人も生きている人と同じような感情を持っていると考える
 このあたり、出典をお差し支えなかったらお願いしたいのですが・・・。

>肉体がなく、死んだときに抱えていた感情に支配されている先祖
 転生すれば、全くの別人(別生物)で、残るのは業のみとのことでしたが、転生する前は生前の自己をどこかで保持しているわけですか。いわゆる成仏していない状態ですか? (輪廻転生の記事で後日ご説明ということでしたら、すみません、無視してください)。

 質問だらけで恐縮ですが、よろしくお願いします。

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