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2010-01-28

先祖の因縁(6)

前回は、さまざまな問題で苦しんでいる人に対し、それは先祖の因縁だからしかたがない、むしろ苦しむことによって因縁が解消されるのだというような態度をとるのは不適切だということについて、因果応報における善悪の因(楽・苦の果を生ずる原因)と道徳的な善悪は一致しないという点から説明しました。

そもそも因果応報を信じるならば、苦しんでいる人に対して無慈悲な態度を取ること自体が悪因縁になることをわきまえるべきなのですが。

今日は、同じ問題について、異熟因(いじゅくいん)異熟果(いじゅくか)という観点から考えてみたいと思います。

異熟因・異熟果については「善因楽果・悪因苦果」において説明しましたが、善なる因には楽(望ましい果)が、悪なる因には苦(望ましくない果)が生じるという因と果の関係性です。ただし苦・楽の結果は無記(善でも悪でもない)なので、原因と結果の性質が違うということから「異熟因・異熟果」といいます。

なぜ楽や苦の結果が善でも悪でもないか。例えば、強盗をして逮捕され、刑務所に入れられたとします。刑務所にはいるというのは苦(望ましくない)結果ですが、それをきっかけとして改心し、善良な人生を送るようになるかもしれませんし、逆に、悪い仲間と知り合って、より悪い犯罪に手を染めるようになるかもしれません。つまり、苦の結果であっても、それをどのように活かすかによって善とも悪ともなりますから、無記に分類されるわけです。

先祖の因縁との関わりでいえば、異熟因・異熟果は、因が果を生じるまでに期間があり、その期間は一定していないという特性があります。いくら因があっても、縁に触れなければ果を生じないわけです。その有り様を、2000年以上前の種が花を咲かせた大賀蓮に喩えることもあります。まあ、現実的にそれほど古い因縁が潜んでいるということは滅多にないでしょうが、それでも、三代・四代を経た因が縁に触れて果を生じるということはあると考えることができます。これが異熟因・異熟果の一つの特性ですが、そのことはすでに何度か触れています。

そしてもう一つ、異熟因・異熟果には重要な性質があります。それは、果を生じた時点で、それを引き起こした業(因縁・業力)は尽きるというものです。これは、前世の因縁を考える場合も同じです。例えば、大きな事故に遭って大けがをしたとします。それが先祖の因縁によるものであったとしても、その因縁は「事故に遭って大けがをした」という時点で終わっており、その後遺症はあるとしても、それをもたらした業(カルマ)で責められる筋合いはないということです。

むしろ大事なことは、その苦の果をきっかけとして、それ以降の人生をどう生きていくかであって、何か償いを強制されるようなことではありません。まあ、どういう人生を生きていくかの選択として、先祖の償い的な生き方もあるかもしれませんが、それはマイナスを埋めるという意味ではなく、プラスを積み上げていくという観点からとらえられるべきです。

なぜ、このことを強調しておきたいかというと、よく先祖の因縁を説く宗教団体などで、交通事故に遭ったりした人に、先祖の悪因縁があるからお布施をしなければならないなどと脅すことがあるからです(まあ、いいことがあっても、悪いことがあっても、脅しにつなげる人たちではあるのですが)。

しかし、異熟因・異熟果ということがしっかりとわかっていれば、こんなバカげた脅しに騙される必要はありません。たとえ事故が先祖の悪因縁によるものであったとしても、事故に遭った時点で因果は尽きています。つまり、そのことについての先祖の悪因縁はなくなっているのですから、さらに因縁をなくすためにお布施をする必要などないのです。むしろ、事故をきっかけとして自分の生き方を見直し、善因を作っていくように切り替えていくことこそ必要です(ただし、金儲けをしたい宗教団体にはあまりメリットがありませんが)。

あるいは、肉体的あるいは経済的その他のハンデを背負って生まれてきた人に対して、昔はそれこそ「親の因果が子に報い」的な論法で差別する人がいました(今でもいるかもしれません)。

しかし、異熟因・異熟果ということから考えれば、出生の時点で、その出生に関わる因縁は尽きていますから、ハンデがあろうがなかろうが、そのハンデを根拠として人間の価値を決めることはできないということになるのです。人間としての価値はまったく対等であって、差別を正当化する根拠は一切ありません(これは先祖の因縁という観点のみならず、前世の因縁という観点でも同様です)。

むしろ、よく考えなければならないことは、異熟果は無記である(善でも悪でもない)ということです。ハンデをあるなしは、苦楽の果報であっても、善悪どちらでもありません。むしろ、そこからどのような人生を気づいていくかによって善にも悪にもなるというのが、正しい因果応報の観点です。

金持ちの家に生まれても、それを活かして人並み以上に能力を発揮し(教育とか有利なはずですから)、世のため、人のために活躍する人生もあれば、どら息子として財産を浪費したり、あるいは立場を利用して人を虐げる人生だってあるわけです。本人の価値は生まれによって決まるのではなく、どのような生き方をしているかによって決まるということです。

そのような観点から、ハンデのない人がハンデを背負った人を差別するというのはどういうことになるかというと、楽の果を得たがために、かえって悪因を作るという分類になるでしょう。因果応報を正しく理解すれば、苦しんでいる人を虐げたり差別したりすることなどできようはずがありません。

先祖の因縁(あるいは前世の因縁)を考える上で、そのことははっきりと認識しておく必要があるでしょう。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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