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2010-02-11

建国記念日

建国記念日、おめでとうございます。

紀元節

雲に聳(そび)ゆる高千穂の
高根おろしに草も木も
なびきふしけん大御世(おおみよ)
仰ぐ今日こそ楽しけれ


今日は建国記念の日。かつての紀元節です。日本書紀における神武天皇が橿原宮で御即位された日を太陽暦に換算したのが2月11日とされます。


橿原宮の跡と伝えられる橿原神宮

もちろん、神話の記述ですから、そのまま事実ではないでしょう。とはいえ、この世を構成しているのは事実だけではありません。例えばイエス・キリストの肉体をもっての復活など、常識的に考えても、常識的に考えなくても、当然フィクションであるわけですが(肉体をもって昇天したイエス・キリストがどこへ行ったのかと考えれば、当時の宇宙観に基づくフィクションであることは論ずるまでもない)、ヨーロッパの二千年の歴史は、そのフィクションを前提として成り立っているわけです。

建国記念日の制定に反対していた人々は、神武天皇の御即位に科学的根拠が薄いなどと批判していたわけですが、そういう人々にしたところで、ユダヤ・キリスト教史観をベースにした近代の迷信であるマルクス主義史観を信奉していたのですから、なにをか言わんやということで、堂々と神話に基づく建国をお祝いするのが健全な日本人であろうと思います。

さて、上記の紀元節の歌にある「高千穂」ですが、瓊々杵尊が天降られた日向の高千穂峰については宮崎県高千穂町という説と霧島連峰という説があります。一応、後者が有力とされ、その宮殿の跡が霧島神宮と伝えられています。

大宝年間(701~704)頃までは後の薩摩・大隅を含む一帯が日向国で、大宝2年(702)薩摩国が、和銅6年(713)には大隅国が分立しています。いずれにいても神武天皇が出発された日向とは南九州、もとは熊襲の国と呼ばれていた地域です。

昨年末、小沢幹事長が韓国の大学で講演し、その中で、すでに学術的根拠がないことからすっかり否定され、忘れ去られている江上波夫氏の「騎馬民族制服説」なんぞを話したようです。憲法は知らなくても、法の抜け道はよく知っている小沢氏らしい知識の偏りといえるかもしれません。

騎馬民族制服説なんて、戦前の日鮮同祖論の焼き直しですし、日鮮同祖論は日韓合邦を正当化するための論理だったわけですが、そういうのを韓国の人が有り難がるという精神状況は少々理解しがたいものがあります。

それはともかく、日本の皇室について現代でも北方から朝鮮半島経由で日本に入ったという観念が何となくあるのではないか、それで高天原は朝鮮半島だなどといわれると、ついそうかななどと思ってしまうのではないかと思われます。その真偽を論ずるのはなかなか難しいのですが、しかし、日本の国の成り立ちを考え、文化を考えれば、むしろ北方より南方に注目する必要があります。

まず、日本は稲作の国であり、皇室に関わる神話や祭祀も稲作と深いつながりがあります。

天孫降臨に当たって、天照大神から「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)」「宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅」「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」という三大神勅が下されるのですが、そのうちの「斎庭の稲穂の神勅」とは、

「吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆにわ)の稲穂を以て、亦(また)吾が児(みこ)に御(まか)せまつるべし(わが高天原の神聖な田で作られている稲穂を、わが御子に任せよう)

というものです。つまり、高天原は稲作が行われるところと観念されており、また、稲作文化が王権と深く関わっていることが示されています。因みに、神道における天津罪は、高天原における素盞嗚尊の乱暴に関わるものですが、その多くが稲作・水田と関わっています。

昔は日本の稲作は遼東半島あたりから朝鮮半島経由で日本に来たといわれていましたが、そのあたりで水田は作られていませんから、現実的にはどう頑張っても無理な話です。

中国において稲作が行われているのは長江流域であり、ここから日本へは海流に乗ってかなりの速度で来ることができます。つまり、常識的に考えれば、日本の稲作文化は中国の江南から直接九州南部に到達したと考えるのが自然です。

あるいは、神社好きの人間にとっては常識ですが、神社の本殿は(独立した建物がない場合を除いて)必ず高床式であり、屋根には千木と鰹木がありますが、これは古代の長江流域にあった文明を受け継いでいることがわかっています(発掘された異物の中に、千木・鰹木を伴う高床式の家屋の模型がある)。

この長江文明は稲作を発明した人たちで(ジャポニカ米の原産地)、高床式の建物に住んでいましたが、黄河流域の畑作文明に圧迫され、雲南省やタイ・ミャンマーなどの奥地、東南アジアの島嶼部、そして日本などに逃れたのではないかと考えられています。

もともと神社に社殿はなく、岩や木などを依り代として神を招き、祭祀が行われていました。社殿が造られ始めたのは中国文化の影響を受け、寺院建築なども入っていた頃のはずであるにもかかわらず、あえて先端の建築様式(北方系)を取り入れず、南方系の建築様式を残したということは注目されるべきところです。

伊勢神宮にしても、現在の形が完成するのは天武・持統天皇の頃で、道教の影響が色濃いことも周知のことです(そもそも神道という言葉も道教の別名)。にもかかわらず、その社殿は千木・鰹木を伴う高床式の建物であり、この様式にこだわったことに深い意味があると考えるのは当然のことでしょう。

そして、天孫降臨という北方系の神話を採用しながら、なぜ天孫降臨の地が半島南部と共通の文化圏を形成していたと考えられる九州北部でなく、熊襲の支配する九州南部に設定されたのか。そもそも、普通に考えれば直接大和に天孫降臨してもよかったはずです(饒速日命は大和に降臨しています)。

これを考えれば、大和朝廷においては、自分たちの発祥の地が南方であるという記憶を持っていた可能性が高いのではないかと考えられるわけです。

まあ、下駄にせよ、ふんどしにせよ、日本は南方文化の国なんですよね。もちろん、半島経由で多くの人々や文化が流入したことはわかっていますが、我々の先祖は、神社や神話に自分たちのルーツをはっきりと残しているわけです。

建国記念の日において、そのあたりをきちんと理解しておきたいものだと思います。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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