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2009-11-20

二重構造の救い(上)

十界についての話の中で、二重構造の救済ということがわかりづらかったというご意見をいただきましたので、補足説明をします。

少し考えていただければわかると思いますが、宗教に一般の人が期待する救いというのは、相反する二つの内容に大別できるのではないかと思います。

第一は、いわゆる現世利益です。

例えば病気がよくなってほしいとか借金苦から逃れたい、その他さまざまな問題の解決を願う。あるいは、家族の幸せとか、試験の合格とか、就職祈願とか、給料が上がりますようにとか、良縁に恵まれますようにとか、現実的欲望を満たし、現状より幸福になることを願う。

これらは、十界でいえば、地獄や餓鬼といった苦しみの世界を逃れ、天界(現実的幸福)を願うということになりますから、六道の中で、よりよい世界を望むということになります。

これに対する救いは、具体的に問題が解決する、あるいは状況がよくなることです。

一方、宗教においては、そういう現実的な欲望を放棄し(本当は「欲望にとらわれず」というべきですが、一般には「欲望を放棄し」だと思われているということで)、心の平安、魂の救いを求めるという方向性もあります。特に仏教やキリスト教などの創唱宗教ではその傾向が強くなります。

※特定の創唱者(教祖)によって創始された宗教。仏教やキリスト教、イスラームなど。なお、神道やユダヤ教のように、特定の教祖を持たない宗教を自然宗教といいます。

そういう意味で救われた状態というのは、病気や経済的困難などの現実的苦難があっても、それに負けることなく、心が平安であったり、前向きに希望に満ちて生きているというようなものです。

現実的な欲望を放棄し(欲望にとらわれず)、心の平安、魂の救いを求めるというのは、六道の中でよりよいところに行くことを目的とするのではなく、そこから抜け出して四聖の境地を目指すこととです。

環境や自分の状態という現実的な状況にかかわらず、心の平安を維持することができるようになるので、永遠不変の救いということができるわけです。

これが第二の救いです。

整理しますと、

①現世利益など、現実の環境や自分の状態が善くなるという救い。

②現実の環境や自分の状態にかかわらず、心の平安や安寧を保つことができるようになるという救い。

ということになります。

しかし、ここが微妙に難しく、あからさまな現世利益はともかく、現世の欲望を放棄して心の平安や魂の救いを求めようとしている、つまり四聖の境地を目指しているのだと思いながら、実は天界の救いと混同していることが少なくありません。

あるいは、特に仏教関係に散見されるのですが(特に浄土真宗の一部)、教条主義的・原理主義的に仏教本来の救済を強調するあまり、現世利益を低級なものとし、否定してしまう向きもあります。しかし、これなども現実的な天界・人界の状態を確保している(寺院経営や大学等の教師として経済的安定を確保しているなど)から言えることではないかと思います。

やはり、普通の人間にとって、現実が苦しいのに心が平安になるというのは極めて困難、ほとんど不可能です。ですから、現世利益、六道の中でのよりよいところを目指すというのも重要な救いなのです。

実際、現世利益を低級なものとして否定している人たちのうち、どれだけの人が、例えば借金取りに追い立てられたり、不治の病に苦しむようになったとき、平然とそれを受けとめられるでしょうか(表面だけではなく)。まして、自分にとって善いことと受けとめられるでしょうか。

そうです。「金持ち喧嘩せず」といいますが、天界の状態であれば、普通、心を平安に保つのは簡単なのです(有頂天になってしまう人もいますが)。喧嘩する金持ちは、天界の住人ではなく、畜生界か修羅界にいるのです。

天界にいる間も(そして、たいていは人界であっても)、「心神(わがたましい)」は傷ましめられないのです。ですから、六道の中でよりよい状態を実現するということも立派な救いになります。ただ、天界の状態も永遠不変ではありませんから、環境や自分の状態によって心の状態が影響される六道の段階では永遠の救いとはいえないということです。

それはそれでいいのですが、問題は、先にも書いたように六道の中の天界と四聖の段階とを混同している人が結構いることです。平穏無事という意味での天界すなわち幸福を願うことと、本当の意味での心の平安や魂の救済を混同している人が少なくないのです(特にクリスチャンなど)。

つまり、心の平安を願う→最低限の平穏無事な生活が保障されれば心は平安である→心が平安になること=贅沢は言わないけれども平穏無事な生活が保障されること→平穏無事な生活が保障されることを願う→心の平安を願っているようで、無意識のうちに平穏無事な生活が保証されることを願っている。

もし、その人が平穏無事な生活を失ったとき、例えば敬虔なクリスチャンが難病に冒されたときなど、それでも神の恩寵を信じて心を悩ませず、喜びのうちに生きていくならば、それは本当の心の平安を得ている人、魂が救われている人といえるでしょう。四聖の段階のどこかにいます。

しかし、せっかく信仰しているのにどうしてこうなったのか、などと不満や嘆きを持つようであれば、その人は六道の中の天界にいたというだけであって、本当の心の平安や魂の救いを得た人ではなかったということになります。

やっかいなのは、神様の目ではなく人の目を気にして、心の中は嵐のように荒れ狂っているにもかかわらず、表面では信仰者らしく振る舞っている人たちです。それはそれで立派な態度だと言ってもよいのかも知れません。しかし、表面を取り繕えば取り繕うほど、本当の救いからは遠ざかり、自分の魂が傷つけられます。

それでも、そういう人に限って、表面の自分を護ることが自分を護ることだと思いこんでいますから、ますますガードを堅くして、さらに自分の魂を傷つけていくことになります。

それはともかく、二重構造の救いということについて、環境や自分の状態が善くなることによって幸福や心の平安を感じるという「六道の世界の中で天界を目指すという救い」と、環境や自分の状態にかかわらず幸福や心の平安を感じることができるようになるという「六道の世界を抜け出して、四聖の境地を目指すという救い」があることを押さえていただければと思います。

この救いの二重構造を明確に押さえておけば、自分の状態や何を目指すべきかなどがわかりやすくなるでしょう。

その上で、二重構造の救いが相互にどう関わっているか、もう少し掘り下げて考えたいと思います。

心神を傷ましむることなかれ。ありがとうございます。
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