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2010-02-16

先祖の因縁(7)

さて、久しぶりに先祖の因縁の話(のはず)です。

前回まで、先祖の因縁という言葉にマイナスのイメージがあるのは、先祖の因縁を信じる側の人たちの理解が誤っているためだという観点から、その問題点を整理しました。

その第一は、先祖の因縁というのは、自分がいかに生きるべきかという観点から考えられるべきものであるのに、そういう観点が欠落していることが多いということです。

第二は縁起という考え方、すなわち結果が生じるには複数の要因があるということを理解せず、一因一果(一つの原因に一つの結果)という単純な関係性を想定するために、現実に適合しないものになっているということです。

第三に、異熟因・異熟果の関係において、苦楽の結果は善でも悪でもなく、また、その果報を生じた時点で因縁は尽きるので、現に受けている苦楽の果報によってその人の価値を決めることはできないが、それが差別を正当化するものであるかのように錯覚しているということです。

先祖の因縁という問題は、どんなに丁寧に説明したところで、現代の日本人の思考に大きな影響を与えている近代合理主義的な価値観や感覚とは相容れない部分があります。それだけに、分かり切った間違いについてはきちんと潰しておく必要があるのです。

東洋と西洋の感覚は違うといっても、我々はデカルト以来の近代西洋の学問を基礎として教育を受けていますから、否応なくその感覚に影響されています。そのため、やはり現代日本ではそれが常識になっています。その基本は、第一に個人を独立した存在とみなすこと、第二に、我々の認識とは無関係に存在する客観的な現実があるということではなかろうかと思います。現代哲学では事情が違うようですが、少なくとも一般人の感覚としてはそうでしょう。

私自身も含めた現代日本人の「感覚」は、過去から不変のものではありません。それどころか中世の日本人の感覚などからすれば、ずいぶん違っている可能性が高いということです。例えば自分という感覚すら、今とは違っていたと考えられるのですが、それがどういう感覚かということは、そういう感覚を持たないかぎりわかりません。

常識には知的な部分もあり、それに関する違いは比較的わかりやすいのですが、感覚の違いというのは、違うということがわかっても、どう違うかということを正しく把握することはまず不可能です。

しかし、依って立つ「感覚」が違っていると、同じ情報に接しても、その理解がまったく違ってしまいます。また、その感覚は一部分にのみ適用されるわけではありませんから、部分において不合理と感じられても、全体の中から見ればバランスが取れているということもありえます。そういう目で判断する必要があります。

お釈迦様が説かれる「無我」は、このあたりを鋭く突いています。自分にとって、もっとも当たり前で疑う余地のない「自分」を疑うように教えているのがお釈迦様です。そういう意味で、デカルトをありがたがる仏教者や仏教学者など、いったい何者だろうかと思ってしまいます。「我思う。故に我あり」という「我」を疑うように教えたのがお釈迦様なのですから。

よく、古いテレビ番組を再放送するときなど「不適切な表現がありますが、制作当時の事情や制作者の意図を尊重して、そのままの形で放映しました」みたいな断りが入ることがあります。そこには、価値観の変化ということもありますが、感覚や常識の変化により、同じ言葉などでも不快感を感じたり、別のニュアンスでとらえられたりということもあると思います。

まあ、ああいうのを見たときに、昔は人権意識がなかったと他人事のようにとらえるのではなく、今の自分が当たり前と考えていることだって、50年も経てば不適切と見られるかもしれないと肝に銘じるのが健全な感覚だと思いますし、そういう感覚があれば、現代の感覚で過去を断罪するような恥ずかしい真似もしないだろうにと思うのですが。

先の大戦以来65年も経って、未だに戦後の価値観で戦前・戦中を批判し、自分は平和で人権尊重の清くて正しい人間だなどと錯覚している人たちを見ると、そろそろ自分も同じ扱いを受けるようになりますよと忠告してあげたくなります。まあ、実際のところ、私はそんなに親切な人間ではないので、せいぜい時代の潮目が変わりきったところで恥をさらせぐらいに思っているのですが(ただ、そういう連中の大半は、今の自分がいい人に見られることに最大の価値を置いていますから、時代の潮目が変われば、先の大戦の後に豹変したごとくの態度を取り、私などより余程時代に適応するだろうとは思います)

それはともかく、先祖の因縁という問題、のみならず前世の因縁とか神仏とか、いわゆる宗教に関わる問題というのは、デカルト以来の近代西洋の価値観とは相容れない部分が非常に大きいわけです。

なので、宗教的な問題を考えようとしたときに、特に近代西洋の合理主義的なアプローチをするとおかしなことになってしまいます。別のものになってしまうわけです。

そのあたりについて、近代合理主義に合わせる形で発展したのがキリスト教のプロテスタントや日本でいえば浄土真宗や禅宗の一部、近代合理主義に軸足を置いたまま古来の宗教現象を理解しようとしたのが近代のスピリチュアリズムやニューソート、一部の新宗教ということになるのではないかと思います。

その路線の一番恥ずかしい例が幸福の科学で、ここまでどうしようもない宗教もどきは珍しいと思うのですが、それはいずれ取り上げるとして。

脱線ばかりして、先祖の因縁の話になりませんが、私が言いたいのは、これから先祖の因縁という問題について考えていく上で、書く私も、読む読者の方々も、お互いに近代合理主義の感覚の中で育ち、ものを考える習慣がついた中で進めていく限界があるということを確認しましょうということです。

もう一つ断っておきたいことは、私は先祖の因縁というものについて、それを理論的に証明しようなどとはさらさら考えていないということです。ただ、生きていくための指針として有効なものにしたいとは思いますが、厳密に理論化しようなどとはさらさら考えていません。現実に有効であれば、仮説でよいと考えています。

これは何も特別な立場ではなくて、例えば竹内薫氏の『99・9%は仮説』(光文社新書)によりますと、「なぜ飛行機は飛ぶのか」ということについて、実は科学的な説明はできていないのだそうです。一応、それらしい説明はありますが、厳密に言えばかなりのこじつけで、「どうすれば飛ぶか」はわかっていても「なぜ飛ぶか」はわからないのだそうです。

ならば、先祖の因縁だって同じで、それが生きていく上で有効であれば「先祖の因縁」理論でいいし、かつ、より有効な形にしていけばいいわけです。そして、先祖の因縁による説明が不適切だということになれば、他のより有効な仮説を組み立てればよい。目的は私たちがよりよい人生を送ることであって、先祖の因縁をありがたがることではないからです。

そのあたりをはき違えている宗教者(というか、宗教団体運営者)が結構いて、宗教の信用を失わせているように思います。まあ、「はき違えた」ほうが組織運営には便利という現実もあるので、宗教団体運営者としては必要なことなのかもしれませんが…

今回は先祖の因縁についてほとんど書けませんでしたが、まあ、ウォーミングアップということで、ご容赦を。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方 (光文社新書)
(2006/02/16)
竹内 薫

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