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2010-02-19

先祖の因縁(9)

先祖の因縁ということで書いてきましたが、最後に先祖の因縁という観点の限界について考えてみたいと思います。

その前に、最近聞いたちょっと不思議な話をひとつ。私の知人のご婦人(私の両親と同年代の人)から聞いた話です。

そのご婦人は息子さんが二人いらっしゃったのですが、数年前、次男を交通事故で亡くしました。

その次男さんには女の子が一人、そしてもうすぐ生まれるという二番目の子どもさんが奥さんのおなかにいました。その二番目の子どもは男の子で、お父さんの顔を知らずに育ったわけです。

ところが最近、その子がお父さんの口癖と同じことを言う、とても不思議だ、とお嫁さんから電話があったのだそうです。

まあ、それについては、お腹にいるときにお父さんの口癖を聞いていたのかしら、ということで納得しているのだそうですが、さらに不思議なことは、亡くなったお父さんというのがいわゆるマヨラーで、冷蔵庫のマヨネーズをそのまま食べるぐらい好きだったのだそうですが、その子も同じことをするのだそうです。いや、不思議だということで、そんなことがあるのだと話してくれました。

例えば亡くなったお父さんの生まれ変わりだなどという話がありますが、こういう現象があって、そう考えたんだろうなと思います。まあ、解釈はいろいろできるわけで、獲得形質は遺伝しないというけど本当だろうか、とか、いや、マヨネーズ(酢?)が好きな遺伝子があるのだろうか、とか、死んだ父親が何か影響しているのだろうか、とかいろいろ考えられます。

どのような解釈が適切なのかはともかくとして、もしかすると我々が親に育てられる過程で影響され、身につけたと思っている性質でも、実は先天的に持っていたという可能性があるのかもしれません。それがどういう意味を持つかは、まだ何ともいえませんが、自分の持っている常識というのは常に疑う必要があるなあと思った次第です。

さて、先祖の因縁という観点の限界について考えてみたいと思います。

現実的に自分という存在を考えるとき、私たちの性質というのはさまざまな要因によって形成され、また、人生のさまざまな場面で受けた影響によって変化しています。つまり、さまざまな因縁の結果として自分という存在があるわけです。

そして、確かに人生の中でさまざまな影響を受けてはいるのですが、それは、かなりの程度、無意識的に選択された結果であることに注意する必要があります。

例えば、誰かから注意された場合でも、人によってその受け止め方が違います。共通する価値観に基づいていれば素直に受け入れ、異なる価値観に基づいていれば反発するということが少なくありません。というか、たいていそうです。

講演会を聞きにいく、本を読む、といった場合でも同様で、まずたいていの場合は自分の関心に基づいて講演会や本を選ぶでしょうし、内容についても、自分の価値観に基づいて取捨選択するものです。

まれに、自分の価値観や人生観を大きく変える出会いがあったりしますが、それは余程の幸運で、たいていは自分の価値観に基づいて、そういうチャンスを拒否します。

では、そういう価値観はどこで形成されるかというと、やはり胎教や幼少期の教育が大きいわけです。教育の結果か、遺伝的なものかを判断することは難しいとはいえ、家系的な気質・性質なども否定できません。

それは、代々積み重ねられてきた先祖の行動とか、親子関係・夫婦関係、何に重きを置いてきたかというようなところから形成されてきたもので、まあ、それを先祖の因縁といってよかろうと思うわけです。

それに従うにせよ、反発するにせよ、否応なくその影響を受けていることは否定できません。そういう意味で、私たちが先祖の因縁に大きく影響されていることは否定のしようのない事実であると断言できるだろうと思います。

しかし、先祖の因縁だけで説明しようとすると、どうしても説明のつかないことが起こってきます。

まず、絶家の問題です。

悪因の結果として絶家になったというのは簡単ですが、では、絶家になった家より子孫が増え広がっている家のほうが善かというと、そうとは限りません。

例えば、五摂家を独占し、堂上家の大半を占めた藤原北家など、その地位を確立するためにそうとうえげつないこともしていて、それによって滅ぼされた(絶家となった)一族もいるわけですが、これをどう判断するか。

無論、因果応報という観点から考えれば、善悪は単純な倫理道徳的な善悪では判断できないわけですし、権力を握ったから幸福だとも考えられないわけですが、それにしても滅ぼされた側をどう判断するかは難しい問題でしょう。

また、荻野さんからの質問にもありましたが、絶家になった家系の業(因縁)はどうなるのかという素朴な疑問もありえます。

次に「自業自得」という問題があります。

先祖の因縁を自分が受けているというのは、人を恨まない生き方として自分を納得させるものだろうと思いますが、先祖の問題というのも、他人の責任を負わされているのと同じだという受け止め方もあるわけです。

それを自分の問題として受けとめる場合、先祖の因縁があって自分の出発点がこういうところにある、故に自分は人生において何をする必要があるかが決まるということになるのですが、それだと別に先祖の因縁は単なる説明というだけで、それを抜きにしても問題はないわけです。

むしろ実際問題として、先祖の因縁を説くために、何でも責任を先祖に押しつけ、自分の責任とか、自分が何をすべきかということが抜けてしまうことが少なくありません。

実際、明らかに自分がやったことで起こった問題さえ、先祖の因縁によるものだと解釈し、その問題を解決するために一生懸命先祖の供養をしているという例がよくあります。

そういう熱心な信仰者の人たちに、自分の責任を先祖に押しつけて、それで一生懸命供養しても、先祖は迷惑だと思うだけですよ、と話すと、みんな大笑いします。内心、自覚があるからでしょう。

つまり、先祖の因縁を持ち出すと、否応なく、自分の責任を先祖に転嫁する心理が働くようになるわけです。

しかし、一番の問題は、先祖の因縁を持ち出すと、必ず考え方が後ろ向きになるという点です。

次回はこの問題について考えてみたいと思います。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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