--------

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
2010-02-20

先祖の因縁(10)

昨日予告しましたように、先祖の因縁を持ち出すと、必ず考え方が後ろ向きになるということについて考えてみたいと思います。

先祖の因縁に関心を持つ人というのは、たいていの場合、現状に対して問題意識を持っている、有り体に言えばいろいろ困った問題があって、それを解決したいと思っている場合がほとんどです。問題には当然、原因があるはずです。それを先祖の因縁に求めるわけです。

今ある問題を何とか解決したいからということで先祖の因縁に関心を持った場合、それが有効に作用することはよくあることです。

というのは、「先祖の慰霊と因果応報」でも書きましたが、先祖の因縁というのは、自分自身というものを見つめ直すきっかけとしては非常に有効です。先祖の因縁というクッションを置くことによって、自分自身の中にある原因に向き合い、それが自分の問題ということを意識するにせよ、意識しないにせよ、先祖の供養という形を取って自分が変わり、それによって問題が解決するということがあるからです。

また、これは霊界の存在を信じるか否かという前提がありますが、私自身がこれまで見聞してきた中で、確かに慰霊や供養によって状況が変わるということはあります。たいていの人なら、そういう不思議な話の一つや二つは身の回りにあるのではないかと思います。霊界で苦しんだり、現世に何かを訴えてきている霊が、供養されることによって浄められ(成仏したという言葉を使うのは抵抗があるので)、それが現世に生きる子孫によい影響を与えるということは、確かにあるようです。

現実的な努力や対処ではいかんともしがたい場合(あくまで現実的な努力を前提として)、先祖の慰霊や供養をしてみるということは価値のあることだと思います。

しかし、だからといって先祖の因縁を発想の中心に置くようになると、考え方が後ろ向きになってしまいます。そして、問題の発生と先祖の因縁による問題解決の繰り返しを延々と繰り返すことになってしまうのです。

なぜ、そうなると断言できるかといえば、まあ、体験的なことによるのですが、それなりに理屈はあります。

まず、先祖の因縁に関心の中心を置く人というのは、まず例外なく、何事も問題がない状態というのが本来あるべき状態だという思い込みがあります。問題があるのは間違った状態で、問題を解消して本来あるべき問題のない状態に戻さなければならないと考えるわけです。

ところが、普通、人間が生きている以上、問題がない状態などというのはまず存在しません。本人が気にするにせよ、気にしないにせよ、何か問題はあるものです。

それで、人生何か問題があるということについて、反応は大きく三つに分けることができるのではないかと思います。

大半の人は、人生そんなものだということで、それなりに日常を過ごしています。大きな問題の場合は悩んだり苦しんだりしますが、それほどでもない問題については特別なこととは思わず、まあ、そんなものだと思っているわけです。

前向きの人は、問題は人生を前進させるためのきっかけとか、自分が成長するための師練と考え、それを克服するための方法を考えます。人生の問題は自分にとってプラスのものだと考えるわけです。

後ろ向きの人は、問題は本来あるべき人生から逸脱している状態だと考えます。過去に過ちがあり、その過ちの結果として問題があると見なすわけです。そして、その原因を探し出し、それを解消することによって、問題を解決しなければならないと考えます。人生の問題は自分にとってマイナスのものだと考えるわけです。

当然、先祖の因縁を中心に置く人は、後者になります。先祖の因縁という原因を関心の中核に置く以上、否応なく後者の発想にならざるを得ないからです。もし、前向きに考えようとすると、先祖の因縁など煩わしいことこの上もありません。

後者の発想でも、問題が解決するのですから、人生はよい方向に進むのではないかと思うかもしれません。実際、個々の問題について先祖の因縁というアプローチから問題解決に取り組むと、正しく対処すれば確かに解決しますから、本人たちは救われたと喜びます。

しかし、問題が一つ解決したらそれで終わりかというと、そんなことは絶対にありません。問題はいくらでもあります。そして、先祖もたくさんいますから、原因として思い当たる先祖もたくさんいます。それで、次から次へと現れる問題を解決し、そのたびに問題解決したことで自分が救われたと喜び、また次の問題が目について、さらにその原因である先祖の問題に取り組むという循環を始めることになります。

ところが、それでも問題がなくなるということはありません。そして、問題があるということは、解消されていない先祖の因縁があるということであり、先祖の供養が徹底していないということになります。

かくして、救われているようで救われていない状態が永遠に続くことになるわけです。常に問題の原因である先祖の因縁を探し求め、その因縁の解消に努めるわけですが、問題のない人生がない以上、主観的には絶対に救われた状態にはならず、因縁がなくなるということもありません。

そして、たいていの場合、問題が解消されなければ自分の夢や目標は実現しないと考えますから、夢や希望に向かった積極的な努力よりは、因縁解消のための消極的な努力にエネルギーが費やされます。そのうちに、因縁解消自体が目的になって、自分が本当は何をしたかったのかわからなくなるようなことさえ起こります。

これに対して、問題は人生を前進させるためのきっかけ、自分が成長するための試練と考えるならば、問題があるというのは正常な状態、むしろプラスの状態ですから、その時点で「救われていない」というような感覚とは無関係です。むしろ、自分にとって必要な状況、恵まれた状況ということになります。そして、一病息災ではありませんが、多少問題を抱えたままであっても、人生の夢や目標を果たしていくことができるわけです。

そういえば、先日、知人に誘われてGLAの集まりに参加したのですが、GLAでは試練を「コーリング」、すなわち、ただ苦難や困難を与えるものではなく、新しいステージを示すものとしてとらえるよう指導しているそうです。これは非常に的確な指導ではないかと思いました。

まあ、私の知るかぎりにおいて、先祖の因縁を説く教えを信じている人で、最終的に因縁がすべて解消され、これから前向きな人生を送っていきますという人に出会ったことはありません。

昔、私の師匠から「いつまでも先祖の因縁ばかり言ってるようじゃダメだ」と言われたことがあります。その時は意味がわからなかったのですが(原因を解消すれば、結果がよくなるはずではないかと思っていましたので)、そういう先祖の因縁を信じている人たちの実態を見るにつけ、なるほど、これでは永遠に堂々巡りのままで、気の毒だなあと思うようになりました。それで、ようやく師匠の言っていた意味がわかった次第です。

そういう意味でも、先祖の因縁というのは間違いではありませんし、自分というものを見つめるためのきっかけとしてはいいと思うのですが、いつまでもとらわれるべきものではないだろうと思うわけです。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

↓一日一回クリックしてくださった方には、きっと何かいいことが起こると思います。
人気ブログランキングへ
スポンサーサイト

theme : 宗教
genre : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

さすが!

なるほど、ですね~・・・時期とか段階というのは、確かにある気がします。ご先祖に向かい合うのも、自分という存在とご先祖とのつながりなど、諸々確認をする期間で、確認できたら向かうのはご先祖の方向ではないですね。実は微妙に感じていた違和感が、今回の内容で理解出来た気がします。堂々巡りでは・・やはり、常に成長・変化して良くなっていきたいですから。的確な視点からのご意見、ありがたいです!

Re: さすが!

先祖という問題に限らず、原因追及というのは、あまりやっていると不毛になるだけです。言い換えれば、そういう方向性自体がマイナス思考です。

やはり、「それをどう生かすか」というほうが前向きですし、その時点でプラス思考になっています。

そのあたりが、善い宗教か悪い宗教か、善い指導者か悪い指導者かを見極めるポイントになるだろうと思います。
プロフィール

こまいぬ

Author:こまいぬ
古今宗教研究所のブログです。

最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ランキングに参加しました
人気ブログランキングへ
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。