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2010-02-22

三句の法門

菩提心(ぼだいしん)を因と為(な)
大悲(だいひ)を根(こん)と為し
方便(ほうべん)を究竟(くきょう)と為す


『大日経』住心品(じゅうしんぼん)にある、執金剛秘密主(しつこんごうひみつしゅ)の一切智智(いっさいちち)すなわち仏の智慧とはどのようなものかという質問に対し、大日如来が答えた内容です。

現代語にすれば、「悟りを求める心を出発点(原因)とし、大いなる慈悲心、つまり人々の苦しみから救おうとする心を基本とし、そのための適切な手段・実践を究極の目的とする」というような意味になります。

古来、「三句の法門(さんくのほうもん)と称され、大日経の教えを端的にまとめた内容として重視されてきました。

さて、お経は尊いものだと大切にするのはいいことですし、自分のレベルで理解してしまうというのも非常に危険なことなのですが、だからといって、自分とは無関係のものとして敬して遠ざけるというのでは意味がありません。不十分であっても、それを自分たちの生き方に取り入れることが大切です。

そのためには、教典の言葉や教えを、自分のこと、あるいは具体的な問題に置き換えて理解することが必要になるだろうと思います。

それで、この三句の法門について考えてみたいのですが、これを取り上げようと思ったのは、最近、ある信仰を熱心にしている知人からされた質問がきっかけになっています。守秘義務がありますから詳しくは書けませんが、その人と同じ信仰をしているご婦人が受けた指導についての話でした。

そのご婦人は、ご主人は亡くし、今は娘さんと同居しているそうです。娘さんはとっくに成人しており、仕事もしているのですが、およそ家事を一切手伝わないのだそうです。たぶん、家賃や食費もあまり入れてないのではないだろうかと思います。基本的には、そのご婦人に過保護なところがあり、娘さんのほうでは甘えるのが当たり前になっているような話でした。

それに対して、その教団でお世話をしている人が、そういう娘さんの態度はよくない、娘さんも最低限、自分のことはしないといけないから、娘さんの世話はやめるようにと指導したのだそうです。自分だって忙しいのだし、娘さんだっていい年なのだから、自分のことは自分でさせなさいというわけです。

それで、そのご婦人は素直に指導を聞いて、その日を境に娘のぶんの家事をやめたのですが、それに対して娘さんが非常に怒り、家の中がとげとげしくなってしまっているのだが、そういう指導ってどうなのだろうか、という質問でした。

もちろん、娘さんが家事をお母さんに任せきりで、お母さんのほうも、自分も忙しいにもかかわらず、全部面倒を見てしまうということに対しては、知人も問題だとは思っていたそうなのですが、だからといって、いきなり世話をやめてしまうという指導はどうなのだろうか、というわけです。

それで、その質問に答えるために三句の法門で説明することにしました。

まず「菩提心を因と為し」、つまり悟りを求める心を出発点にするということについて。

この問題では、普通に考えれば娘さんが問題ということになるわけですが、信仰をしているお母さんの立場からすれば、その問題を通して自分が悟りに近づくための課題ということになります。この問題に取り組むことを通して、自分が悟りに近づいていこう、自分の修行なんだと自覚することが出発点だということです。

ところが、単に娘さんの世話をいきなりやめさせたというのは、その出発点となるべき悟りを求める心、「自分が悟りを得るための修行だ」という観点がまったく欠落しているということです。

次に「大悲を根と為し」、人々を救いたいという大悲の心が基本(根)であるということについて。

慈悲の「慈」はサンスクリット語の「マイトリー」で、相手に喜びを与えたいという心、「悲」は「カルナー」で、相手の苦しみを取り除きたいという心とされます。

ですから、問題に取り組むに当たっては、相手に正しいことを教えるなどという上から目線で対するのではなく、相手の苦しみを取り除きたいという親のような気持ちで接することが基本だということです。また「根」と表現されるように、悟りの種である菩提心(悟りを求めようとする心)は大悲の心によって成長し、究極的な目標である方便(適切な手段・実践)を花開かせるということでもあります。

ですから、娘さんの問題に取り組むに当たっても、そのような生き方は本人の不幸であり、そのことに気づいて、よりよい人生を送ってほしいという大慈大悲の心から取り組まなければならないということを示しています。

ところが、いきなり世話をやめさせたというのは、そういう大慈大悲の心ではなく、娘さんの誤った価値観や人生観を正してやろうという心があるのではないかと思われます。まず間違いなくそうでしょう。

そして、最後の「方便を究竟と為す」、人々を救うための適切な手段・実践が究極の目的である。

仏様のさとりには「智慧」の側面と「慈悲」の側面があり、例えば阿弥陀如来であれば、智慧を勢至菩薩が、慈悲を観世音菩薩が表します。そして、智慧と慈悲が揃えば、当然、そこに形として適切な手段・実践が行われるのは当然のことといえるでしょう。

もし、手段・実践が適切でないとすれば、それは智慧が欠けているか、慈悲が欠けているかのどちらかです。

ですから、方便(適切な手段・実践)が究極的な目標であるというのは、考えてみれば当たり前のことではあります。お釈迦様が弟子や信者を導くのに、いかに巧みな指導をしたかを考えてみれば明らかでしょう。

そこで、この観点から考えてみると、いきなり娘さんの世話をやめて、その結果、親子関係がまずくなったというのは、明らかに手段・実践が適切でなかった、適切な方便が用いられていなかったということです。

まあ、これは当然のことで、問題に取り組むに当たって、菩提心を因としていないし、大悲を根としていないのですから、適切な方便を使うことなどできるはずがありません。

では、このご婦人が悪いのかというと、そうは言えません。このご婦人にしたところで、わからないから教団のお世話になっているのであって、指導を受けなくても適切に対処できるのなら、わざわざ信者になる必要などないわけです。

ですから、問題は当然そのような指導をした人にあります。

そもそも教団で指導に当たる人というのは、菩薩行(菩薩としての修行=利他行・他人を幸せにする修行)の実践者です。そして、三句の法門は菩薩のあり方を教えているわけです。

そういう観点から見直してみれば、まず、教団で人のお世話をする人というのは、まず、指導に当たっては、その問題に取り組むことを通して自分が悟りに向かうという菩提心を出発点にしなければなりません。

次に、教えてやろうなどという高慢な心ではなくて、相手の苦しみをどうすればなくすことができるだろうか、という大悲の心を基本にしなければなりません。そして、問題を解決するための方便、すなわちもっとも適切な具体的方法を提示する、あるいは自ら行うことがもっとも重要だ、ということになります。

それらが完全に欠け落ちているために、その指導を受けたご婦人が、かえって問題をこじらせるという結果になってしまったわけです。

ですから、この三句の法門をきちんと理解していれば、宗教団体の中でおかしな指導がずいぶん減るだろうと思うわけです。

こういうと、知人は大変納得しましたが、その上で、では自分はどうすればいいのか、と聞いてきました。

これが一番難しい質問で、私も当事者ではありませんし、知人も当事者ではありませんから、できることにはかぎりがあります。また、残念ながら、そこで適切な方便を使えるほどの智慧もありません。なので、早く本人たちが気づくようにお祈りして、後は見守るしかないんじゃないかと答えたのですが、考えてみれば、情けないことです。

それにしても、宗教団体というのは、ある意味で一般社会以上に宗教的な実践が難しいところだということを再確認させられた次第です。

心神(わがたましい)を傷ましむること莫れ。ありがとうございます。

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